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2009-05-10(Sun)

忌野清志郎さんの葬儀

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忌野清志郎さんの葬儀には、生前から親交の深かったミュージシャンや俳優らが多数参列した。葬儀では俳優の竹中直人さん、大竹しのぶさん、ロックミュージシャンの甲本ヒロトさんの3人が弔辞で在りし日の清志郎さんをしのび、別れを惜しんだ。弔辞の全文は次の通り。

◆俳優・竹中直人さんの弔辞
清志郎さんへ。清志郎さん、清志郎さん。僕はきょう、清志郎さんに「いってらっしゃい。今まで本当にありがとうございました」。ただ、それだけを言うつもりで来たのに、「弔辞をお願いします」って、ものすごいプレッシャーです。めちゃくちゃプレッシャーです。だから、清志郎さんにもらった指輪をしてきました。きのうの朝はものすごい雨と雷でした。急に外に出たくなり、大音量で清志郎さんの歌を流しながら、車を走らせました。ボス、キング、ゴッド……、いろんな呼び方が清志郎さんにはあったけど、僕にとっては、やっぱり清志郎さんです。何だかまだぼーっとしています。体も心もまだ震えています。
お通夜の日、清志郎さんの寝顔を見たけど、別人じゃないかって思ってしまいました。でも、とてもきれいな顔でした。とってもきれいな手でした。僕ね、清志郎さん、僕たちはまだ、信じられない思いでいっぱいです。忌野清志郎が死んじまった。何度も言葉でつぶやいても、心の中で思っても、受け入れることができません。絶対に受け入れることなんかできるわけがない。でも、本当は、清志郎さん、大好きな清志郎さん、みんなみんな、清志郎さんのことが大好きです。清志郎さんのこと嫌いな人なんて、誰一人だっていない。 清志郎さんががんを克服したとき、三浦友和さんと3人でお祝いをしましたね。そのとき清志郎さんは「竹中、オレ、ガンじゃなかったかもしれないんだが、いまさらそんなこと言えないんだよな」って言ってましたね。 僕が中学3年生の時、深夜のラジオから独特な歌が流れてきた。「なんて独特な声の持ち主なんだ」。それが僕にとって清志郎さんとの最初の出会いでした。それからずっと清志郎さんの音楽は、RCサクセションの音楽は、僕のそばにいました。そして僕は大学生の時に、古井戸の加奈崎さんの紹介で、本物の清志郎さんに出会え、僕たちの作っていた8ミリ映画に出演してくれることになったんです。でも、撮影途中カメラが倒れて壊れてしまい、清志郎さんの出演シーンはなくなってしまいました。それからライブで清志郎さんに会った時、清志郎さんが「竹中、あの8ミリ映画はどうした」と言ってくれたことを思い出します。その言葉は僕の心の中にずっと残っていて、いつかきっと清志郎さんと一緒に映画を作るんだと夢をふくらませてきました。そしてその夢はかない、清志郎さんは僕が監督した映画の音楽監督をやってくれて、日本アカデミー賞の最優秀音楽賞を取ったんですよね。清志郎さんは僕が映画を撮るたび、「竹中、映画を撮っているそうじゃないか。出番はないか」と必ず駆けつけてくれました。僕がテレビをやっている時も「竹中、出番はないか」と必ず駆けつけてくれました。僕が50歳になった時も、「竹中、おめでとう」と駆けつけてくれました。僕がどんなに落ち込んでいても、「竹中」っていつも声をかけてくれました。清志郎さんの30周年の時も、35周年の時も、「竹中、出番があるぞ」と声をかけてくれました。清志郎さんが5夜連続のラジオをやる時も「竹中、一人では間が持たないから来てくれないか」と呼んでくれました。僕が作った映画が映画館でやっている時も「竹中、お客さん入っているらしいじゃないか」って一緒に映画館に行ってくれて、お客さんが入っているのを見ながら「竹中、やったな、やったな」と何度も何度も言ってくれました。僕はみんなに自慢したいです。オレは忌野清志郎と友達なんだぜ!って。世界中の人に自慢したいです。ずっとずっと自慢していていいんですよね、清志郎さん。僕は、清志郎さんに何もしていない。自分のことばかりで。 清志郎さんの髪が抗がん剤で抜け落ちて、また生えて来た時、清志郎さんは僕に言ってくれましたよね。「竹中、竹中には絶対勧められないんだけどさ。抗がん剤ってさ、髪が全部抜けちゃうんだけど、その後に生えてくる髪が剛毛なんだぜ」って。でも僕は清志郎さんに「頑張ってください」なんて、ありきたりな言葉しか言えなかった。 清志郎さん。清志郎さんが残してくれた言葉、声、歌は、ずっとずっと僕の中に生きています。忌野清志郎は死んでない。ずっとずっと僕たちの中に生きています。ものすごくさびしいけど、僕たちはそう確信しています。 清志郎さん。僕の母は、僕が高校3年生の時に亡くなりました。母の死はそのころの僕にとっては深い悲しみでした。3年前、母の33回忌の時、母のお墓のあるお寺の住職さんが、こんな言葉を僕に伝えてくれました。「直人君のお母さんが33年間、ずっと直人君のそばにいて、直人君を見守っていたんだよ。33年たってお母さんがやっと直人君から離れて月に帰っていったんだ」。だから清志郎さんはこれから33年間、ずっと僕たちのそばにいてくれるんだと思いました。そして、月に帰っていくんですよね。だから清志郎さん、これからも33年間、僕たちのことを見守っていてくださいね。見て欲しくない時は、目をつぶって見て見ぬふりをしていてください。でも、ここだって時は、僕たちに岩をも砕くエネルギーと勇気を与えてください。 清志郎さん、ボス、キング、ゴッド。ずっとずっと僕たちは、清志郎さんが大好きです。ずっとずっとずっと! 清志郎さーん、またね!(大きく手を振って、一礼)

◆俳優・大竹しのぶさんの弔辞
清志郎さん、今日、晴れたよ。たくさんの人たちが朝早くから並んで待っています。あの武道館の日みたいに、ゆうべも空を見ながら清志郎さんのことを思いました。今ここでこんな風にあなたとお話をする日が来るなんて、夢にも思っていませんでした。今頃はきっとつくばの町を自転車で走っているか、完全復活完全版の夏のフェスのリハーサルがそろそろ始まる時期なので忙しくなっているはずでした。そう約束していましたよね。 去年の2月、たくさんの、ほんとうにたくさんの人たちがあなたの復活を喜び感動し、夢はかなうものだと教えてもらいました。そして7月、あなたの病気の再発がわかった夜、私はゆうべのように空を見ながら、どうぞ一日も早く病気が治りますように、がんなんてどっかにいってしまいますようにとお祈りしました。そのとき、ああ今こうしてたくさんのファンの人たちが私と同じように清志郎さんにすごいパワーを送っているんだなということを感じました。「清志郎、がんばれ」「清志郎、絶対戻ってこい」って、あなたが言った「夢を忘れず」にという言葉と一緒に。だから絶対治ると信じることができました。そのことをあなたに言ったら、あなたからの返信は「ラブ ラブ ラブ」でしたね。「みんなの愛にこたえてちゃんと元気になるから、全然大丈夫だよ。心配しないで待っててね」という力強いものでした。 そしてこの5月、あなたにもう二度と会えないとわかったとき、たくさんの人が大きなとてつもなく大きな悲しみに包まれました。でもそれと同時に、あなたの歌に、言葉に、音楽に、再び命が注ぎ込まれて私たちの心にずっと生き続けることを確認できた夜になりました。あなたを大好きな音楽の仲間たちの手によって、あなたがずっと言っていた愛と平和な世界が一日も早くくるように、これからもリードしていってください。 療養中も「何もすることがないから明るく引きこもってるんだ。でも結構楽しいです」というメールをもらいました。大好きなご家族と優しい時間を過ごすことができてよかったね。これからもいつも竜平君、百(もも)ちゃんを見守ってください。昨日、私の友人の勘三郎さんとあなたの話をしました。彼は「僕はあの人に会わなくてよかったと思う」と言っていました。「会っていたら、悲しくてやりきれないから。そのぐらいきっとすてきな人だと思うから」と言っていました。本当にその通りです。私なんかよりももっともっと身近にいた人、私なんかよりもっともっとあなたを愛していた人たちの悲しみを思うと言葉もありませんが、でもやっぱり私はあなたに会えてよかったです。あなたのファンになって本当によかったと思っています。 ときどき空の上から「愛しあってるかい」って問いかけて下さい。「OK、ベイビー、最高だぜ」って答えられるように、あなたのように強く、優しく、明るく、楽しく生きていきます。清志郎さん、本当にお疲れ様でした。そして本当に本当にありがとう。

◆ミュージシャン・甲本ヒロトさんの弔辞
清志郎ーっ。あなたとの思い出にろくなものはございません。突然呼び出して、知らない歌を歌わせたり、何だか吹きにくいキーのハーモニカを吹かせてみたり、レコーディングの作業中にとんちんかんなアドバイスばかり連発するもんで、レコーディングがとどこおり、そのたびに我々は聞こえないふりをするのが必死でした。でも、今思えば、全部冗談だったんだよな。 きょうも、「清志郎、どんな格好してた?」って知り合いに聞いたら、「ステージ衣装のまま寝転がってたよ」と言うもんだから、「そーか、じゃあ、オレも革ジャン着ていくか」と思ってきたら、何だか浮いてるし。清志郎のまねをすれば浮くのは当然で、でも、あなたは、ステージの上はすごく似合ってたよ。ステージの上の人だったんだな、うん。 一番最近会ったのは、去年の11月、それはザ・フーの来日公演で武道館の、その時はあなたは客席の人でした。ステージの上の清志郎じゃなくて、客席の人でした。たくさんの人が清志郎にあこがれるように、あなたはロックンロールにあこがれていました。僕もそうです。そんな一観客同士の共感を感じ、とても身近に感じた直後、あなたはポケットから何かを出されて、それは業界のコネをフルに生かした戦利品とでもいいましょうか、ピート・タウンゼントの使用するギターのピックでした。ちっともあなたは観客席の一人でなかった。僕があまりにうらやましそうにしているので、二枚あったそのうちの一つを僕にくれました。(ポケットを探り)こっちじゃねえや、これだ。ピート・タウンゼントが使っていたピックです。これはもう、返さなくていいね。収めます。ありがとう。一生忘れないよ。短いかもしれないけど、一生忘れない。そんで、ありがとうを言いに来たんです。数々の冗談、ありがとう。いまいち笑えなかったけど。きょうもそうだよ。ひどいよ、この冗談は。そんでね、ありがとうを言いにきました。清志郎ありがとう。それから後ろ向きになっちゃってるけど、清志郎を支えてくれたスタッフの皆さん、それから家族の皆さん、親族の皆さん、友人の皆さん、最高のロックンロールを支えてくれた皆さん、どうもありがとう。どうもありがとう。で、あと一つ残るのは、きょうもたくさん外で待っているあなたのファンです。彼らにありがとうは、僕は言いません。僕もその一人だからです。それはあなたが言ってください。
どうもありがとう。ありがとう。
2009-04-23(Thu)

4度目も勝てず内海、泣きじゃくった「悔しいとしか…」

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下を向くと、両目にたまった涙がこぼれ落ちた。ベンチに戻った内海の体は、小刻みに震えていた。1点ビハインドの7回無死一塁で無念の降板。「今日の試合は、どうしても勝ちたかった」ただ、悔しかった。勝ちたい一心だった。アンダーシャツで、白いタオルで何度も涙をぬぐった。その姿は、地上波はなかったが、CS放送などで全国に映し出された。
 4度目の挑戦も報われなかった。2回無死からデントナに左越えソロを献上。6回には味方の失策絡みで1死一、三塁のピンチを招き、川島慶の右犠飛で2点目を許した。7回途中、4安打2失点(自責1)。十分に先発の役目を果たしたが、白星を求める左腕には悔しさが残った。
 「ここまでチャンスをもらっていながら、ふがいないピッチングをしていたので、何とか結果を出したかったんですが…。悔しいとしか言いようがありません」7回、先頭のデントナに左前安打を許し、71球で降板。責任感の強い男は、リードされた状態で降板したことに悔いを残した。
2回無死、デントナに本塁打を打たれて、マウンドを蹴る内海 念願の白星は手に入らなかったが、内海の闘争心は原監督に伝わった。20日には期待を込めて「侍スピリットはないのか」とゲキを飛ばした指揮官はこの日、「本人もかなり強い気持ちでマウンドに上がって、スターターの仕事としては95点」と合格点を与えた。
 5度、先頭打者に出塁されたが、粘りを見せた。2失点で踏みとどまったからこそ、逆転勝利が待っていた。降板直後にベンチで見せた悔し涙を、原監督は「そういう気持ちでやっているということ」と強い覚悟の表れととらえ、「勝ち投手にはならなかったが、この先マウンドに上がれば勝ち星がくると思う」と改めて期待を寄せた。
 試合後の左腕は悔しさを押し殺し、「次、頑張ります」と短い言葉に決意を込めた。今季初勝利へ、次回登板が5度目の挑戦。野球に純粋で白星に貪欲な内海を、勝利の女神は簡単には見放さない。
2009-02-15(Sun)

ダル離脱前に置き土産!中田&吉川熱血指導…日本ハム

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WBC日本代表候補の日本ハム・ダルビッシュ有投手がキャンプの投げ納めを行った。2軍キャンプ地の沖縄・国頭村のブルペンで87球。課題のクイックモーションをこなし、申し分ない打ち上げだった。一方で、吉川らには熱血指導と、チームに“置き土産”も残した。
 最終調整に抜かりはなかった。27球目から34球連続で、今キャンプ中はほとんど練習していなかったクイック投球を試した。そのうち3球は「今がどのレベルにあるかを知りたくて」と、フォームの動き出しから捕手のミットに収まるまでの時間を計測。数値はいずれも1・25〜27秒だった。吉井投手コーチは「平均が1・3秒くらい。いい方でしょう」と説明、エースも「いい練習ができたと思います」と納得顔だ。
 これからチームを1か月半離れることを「変な気持ち」という右腕は、弟分としてかわいがりながら、現在は2軍の3年目左腕・吉川を「何や、そのクソなフォームは!」と一喝。足の上げ方、体重移動など手本を示してみせた。また、紅白戦で三振した中田に対しては、「何で打てへんの? トレーニングしてないからやろ!」とここでも説教。自分がいない間に後輩たちの奮闘を願うからこそ、厳しい口調でゲキを飛ばしたのだった。
 日本代表合宿地の宮崎に入る右腕に、不安はない。あいさつでは、先発の柱が確約されているにもかかわらず、「合宿で代表から落ちないように頑張ります」と周囲を笑わせた。本番に向け「メンバーの実力を見れば上の方にいける。一番上までいきたい」と宣言したダルビッシュ。今度は自身初の「世界一」を手土産に、日本ハムに帰ってくる。
2009-01-21(Wed)

小室哲哉詐欺を認める

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著作権譲渡をめぐる5億円の詐欺罪に問われた音楽プロデューサー小室哲哉被告は、大阪地裁(杉田宗久裁判長)の初公判で「おおよそ合っている」と述べ、起訴事実を認めた。
 小室被告は同日午後の公判で「被害者に多大なご迷惑をおかけし、おわびしたい。誠意を持って弁済を進めたい」と述べた。
 検察側は冒頭陳述で、小室被告は利息だけで月3000万円の借金返済に追われて資金繰りが破綻し、「目先のことが大事でしょう」と詐欺となると知りながら犯行を進めたことを明らかにした。
 被害が多額で実刑判決も予想されるが、小室被告は判決までに弁済して情状酌量を求める方針。
 裁判長に職業を尋ねられた小室被告は「音楽家」と答えた。
 検察側冒頭陳述によると、1996年ごろの小室被告の年収は10億円あったが、不動産購入や遊興費に費消。2005年には年収が5000万円に減っていた上、〈1〉レコード会社とのプロデュース契約の解約に伴う先払い金返還で10億円〈2〉離婚慰謝料や養育費計7億8000万円―などで約18億円の借金があった。
 その中で、銀行から融資が受けられず、年利24%の高利融資などに手を出した結果、利息だけで月3000万円が必要となり、資金繰りが破綻、犯行に至った。
 起訴状によると、小室被告は、自ら役員を務めるプロダクション「トライバルキックス」監査役木村隆被告=公判前整理手続き中=らと共謀。06年7月、これまでの作品約800曲の著作権をすべて所有しているように装い、10億円で譲渡する契約を兵庫県芦屋市の投資家男性に持ち掛けた上、同年8月に「印税収入が前妻に差し押さえられているので、解除に必要」と言って先払いさせた5億円をだまし取った、とされる。
 杉田裁判長は次回期日を3月12日に指定。第3回で小室被告の被告人質問、第4回で結審する方針を示した。
 この日、小室被告は開廷2時間半前の午前7時半すぎに地裁入り。地裁には61の一般傍聴席を求めて1034人が列をつくった。
2008-11-11(Tue)

田母神俊雄・前空幕長が改憲主張…国会参考人招致で

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歴史認識に関し政府見解を否定する論文を発表して更迭された田母神俊雄・前航空幕僚長は11日午前、参院外交防衛委員会での参考人招致で、憲法9条に関し「国を守ることについてこれほど意見が割れるものは直した方がいい」と述べ、改正すべきだとの考えを表明した。田母神氏は論文でも、集団的自衛権行使を容認すべきだと主張。航空自衛隊の前最高幹部が憲法改正の持論を国会で正式に表明したことは、シビリアンコントロール(文民統制)との関連でも問題となりそうだ。
 一方で田母神氏は、懸賞論文募集を航空幕僚監部の教育課長に紹介したことを明らかにした。教育課長は「自己啓発に役立つ」とファクスで論文の存在を各部隊に周知させており、田母神氏の関与で組織的に投稿を働き掛けた疑いが濃厚になった。浜田靖一防衛相が約6000万円の退職金の自主返納を求めたことについては「その意思はない」と拒否した。
 懸賞論文には、田母神氏以外にも航空自衛官94人が応募。防衛省・自衛隊は各部隊への通知について「教育課長の判断で、田母神氏の関与は確認されていない」としていた。ただ田母神氏は「私が指示すれば、千を超える数が集まる」とも述べ、直接的な指示を否定した。
 浜田防衛相は、懲戒処分の手続きに入らなかった理由に関し「(懲戒手続きの審理の中で)政府見解と異なることを新たに主張され、自衛隊員の士気が落ちることは避けたかった」と釈明。田母神氏は懲戒処分の審理に入った場合の対応に関し「村山首相談話は政治声明だと思うので、われわれにも言論の自由があることを主張するつもりだった」と答弁した。
 田母神氏は、懸賞論文を募集したマンション・ホテル開発企業「アパグループ」との関係について「資金提供などは一切受けていない」と強調。小松基地司令時代に同社の元谷外志雄代表をF15戦闘機に体験搭乗させたことを明らかにした。
 浜田氏は、田母神氏が同趣旨の論文を部内誌に寄稿していたことに「チェックができていなかった」と指摘し、航空自衛隊に田母神氏の考え方が浸透した可能性を「否定はしない」と述べた。
 民主党の浅尾慶一郎、犬塚直史、共産党の井上哲士各氏への答弁。
2008-10-17(Fri)

「藤田憲子さんがネタ元」 大相撲八百長疑惑訴訟

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週刊現代の八百長疑惑報道で名誉を傷つけられたとして、日本相撲協会と北の湖前理事長(元横綱北の湖)が発行元の講談社などに計1億1000万円の賠償などを求めた訴訟の口頭弁論が東京地裁で行われ、週刊現代のライターで被告の武田頼政氏は「故二子山親方の元夫人・藤田憲子さんから貴ノ花と北の湖の一番が八百長だったと聞いた」と藤田さんがネタ元だったことを明かした。その藤田さんは出廷せず講談社側は証人申請を取り下げた。また、北の湖前理事長は「まったくのうそ」と八百長を全面否定した。
 ネタ元は藤田憲子さんだった! 週刊現代のライター・武田頼政氏は07年3月10日号に、75年春場所千秋楽で当時大関だった貴ノ花が、横綱北の湖に勝って初優勝を決めた優勝決定戦が八百長だったと掲載。記事中では二所ノ関一門の関係者としか明かされていなかった情報源だが、証言台に立った武田氏はそれを先代二子山親方のおかみさんであり、若貴の母である藤田憲子さんの証言によるものだったと明らかにした。
 藤田憲子さんから八百長を聞いたことがあるか? と尋問された武田氏は「貴ノ花と北の湖の一番が八百長だったと聞いた」。優勝決定戦だけでなく「本割と優勝決定戦の2番。情報として八百長があると存じていた藤田さんが本当にあると知ったのはこの2番だった。八百長をしないというのが家憲であり部屋の憲法第一条。憤まんやり方ないという感じだった」と続けた。
 本来は講談社側弁護団が証人申請していた藤田さん本人が証言するはずだったが、「事態が大きくなって、お考えになることができたのでは」と武田氏。講談社側は藤田さんへの証人申請を取り下げたが、代わって武田氏が藤田さんから取材したという内容を証言していった。
 八百長は貴ノ花の兄である花田勝治氏(初代横綱若乃花で元二子山理事長)からの指示だったという。「地方場所の千秋楽に家族が呼ばれることはないのに、75年春の千秋楽前日に呼ばれた。車で大阪へ行き、ホテルで優勝を見届けて祝勝会場に行ったが、車が道に迷って終わっていた。主人が1人でタバコを吸って待っていて、400万円用意してくれないかと言われた」と具体的な状況を説明。
 「何の金かと食い下がったら、花田勝治氏から星の手当をしたのかと言われ、いやしてませんと言ったら、じゃあやれと言われた」と語った。400万円は「第一勧銀でおろしたと聞いているが忘れました。ご主人に渡して、そこから先は聞いていません。千秋楽前日に八百長が決まっていました」と話した。
 協会側の吉川精一顧問弁護士は「結局、藤田憲子さんは証人として出ていない。印象はよくないでしょうね。重要なポイントの人が来ない。スター証人が来なかった。いつお金をもらったか、だれとだれが八百長の約束をしたか、1番重要な要素が分からない。証拠としては不十分」とし、藤田さんが武田氏の証言を否定した場合には「偽証になるでしょうね」と話していた。
2008-09-19(Fri)

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「私は一週間、泣きに泣きました。私に目が三つあるわけではない。皮膚の色が違うわけではない、口が二つあるわけではない、耳が四つあるわけではない。何も変わらないのに、そして一生懸命がんばるのに、自分が手塩にかけたそういう人たちに、なぜそんなことを言われなくてはならないのだという、奈落の底に落ちた私の悲しみは一週問続きました」
 敗戦から二十八年後の一九七三年(昭和四十八年)三月七日、京都府議会の本会議場は静まりかえっていた。演壇に立った府会議員の野中が大鉄局を辞めたいきさつを切々と語っていたからだ。
 私が調べた範囲では、彼が公開の場で自らの被差別体験を詳細に語ったのは、後にも先にもこの時しかない。
「(一週間悲しみ抜いた末に)私が最後に出した結論は、私はあまりにもいい子になっていたということでした。大阪へ出て部落の出生であることを言いふらそうとも、隠そうとも思ってなかったけれども、自分の環境から逃げ出していい子になりすぎておった。やっぱりまっすぐ自分を育んでくれた土地へ帰ろうと。府議になることよりも、町長になることよりも部落差別をなくすことが私の政治生命であります。ここでこんな悲しいことを言わなくてはならないのも、これが私の最大の政治生命であるからです」
 いったい野中の身に何が起きたのか。もう一度、敗戦後の大鉄局(大阪鉄道局)に戻ってみよう。
一九五〇年(昭和二十五年)、野中は大鉄局業務部審査課の主査になっていた。野中は審査課の族客係として切符の印刷工場の検査や、駅員たちの指導などの仕事をてきぱきこなし、課内で重用された。……
 野中の運命を変える事件が起きたのはそのころである。当時の審査課には野中のあっせんで入った園部中学の後輩が前出の黒田ら二人いた。野中は彼らを自分の下宿で寝起きさせ、食事の面倒も見てやっていた。ある日、野中が局の更衣室で着替えをしていると、衣裳棚を隔てた向こう側から聞き覚えのある声がした。
「野中さんは、大阪におれば飛ぶ鳥を落とす勢いでやっているけれども、園部へ帰れば部落の人だ」……
 野中が部落民であるという話はあっという間に局内に広がった。野中の昇進ぶりをねたむ職員たちが「鬼の首でも取ったように」野中の府議会での発言に騒ぎ、上司に対して「なぜ、野中をあんな高いポストにつけるのか」という抗議が一斉に起きた。
 これまで信頼していた相手が態度を豹変させるのを見るのは辛かった。野中は夜、下宿に帰ってふとんのなかで悶え苦しんだ。悔し涙がこぼれた。
 何で自分はこんな馬鹿なことを言われなきゃならんのだ。大阪へ来て、一生懸命働いたつもりなのに……
 苦しみに苦しみぬいた末の一週間目の朝のことである。
「ここはおれのおるところではない」
 という声が聞こえてきた。そのとき野中は心を決めた。
「おれは大阪でいい子になりすぎていた。結果的に自分の環境から逃げていた。自分を、自分という人間を知ってくれているところで、もう一度生き直してみよう」
元社会党代議士で部落解放同盟の書記長をつとめた小森龍邦(現解放同盟広島県達委員長)は、戦後の解放運動を引っ張ってきた指導者の一人である。……部落解放の理念と歴史を体現する数少ない男の一人と言っていいだろう。
 その小森が野中の存在を初めて知ったのは一九八二年(昭和五十七年)三月、京都市の京都会館(旧岡崎公会堂)で全国水平社創立六〇周年記念集会が開かれたときだった。
 来賓として壇上に立った京都府副知事の野中はこう挨拶した。
「全水創立から六十年ののち、部落解放のための集会を開かなければならない今日の悲しい現実を行政の一端をあずかる一人として心からおわびします。私ごとですが、私も部落に生まれた一人です。私は部落民をダシにして利権あさりをしてみたり、あるいはそれによって政党の組織拡大の手段に使う人を憎みます。そういう運動を続けておるかぎり、部落解放は閉ざされ、差別の再生産が繰り返されていくのであります。六十年後に再びここで集会を開くことがないよう、京都府政は部落解放同盟と力を合わせて、部落解放の道を進むことを厳粛にお誓いします」
 全国から集まった約二千人の同盟員らから大きな拍手がわいた。東京・六本木の部落解放同盟中央本部で小森が当時を振り返る。
「そのときワシは同盟の中央執行委員じゃったが、野中さんの演説にみんながやんやの喝采をしてじゃな、ワシは『おお、元気ええ人がおるな。野中いうのはやるもんじゃなあ』と思った。地位を得た人がそういう(出自を明らかにする)宣言をしてくれるのは非常にみんなを元気づけるわな。そういう意味の感心をしたのを覚えとる」

野中氏は、この「部落解放の道を進むこと」との厳粛な宣言の翌年から、国政の場で活躍することになります。

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